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Jメール日記

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  • アルピーヌ 60歳以上 - 東京 close

自己紹介

《コメント》 ドライブ は、年間走行距離が三マンキロ越え! 業務と通勤で、歩く歩数は二マン歩越えの元気有り余るシニアです コロナ禍での「孤独」、多くの方が感じたことと存じます。 リモートワーク、オンライン学習、友人や仕事仲間との交流も少なくなり、気がつけば「一人ぼっち」。 そんな孤独感の中で、過度に思いつめるというか考え込んでしまう日々が増えておりませんか? 私、翁からのメッセージ 本当に困った時、相談する人は… 普段、貴女に耳の痛いことを 言う身近な方が力になってくれる 私が66年生きて来た経験から 言えることです! 【コロナ禍中の大谷現象】 大谷翔平が持っている野球選手に必要な性格とは? プロ野球選手は常に大観衆の前でプレーをすることが必要になります。チームの勝敗にファンは毎日のように一喜一憂します。 ファインプレーやナイスピッチングには割れんばかりの大歓声を送ります。エラーをした時や打たれてしまったときは悲鳴のような声が球場に響き渡ります。 自分の一挙一動をファンは一心に見守っています。そして、チームの勝敗だけでなくファンからの期待を背負ってプレーする選手にかかるプレッシャーは相当のものです。 大谷翔平はどんな場面でもプレッシャーに負けることなく、チームやファンの期待以上のパフォーマンスを発揮し続けています。強靭なメンタルも大谷翔平の魅力の一つですね。 大リーグ、エンジェルスの大谷翔平選手が、9日のアスレティックス戦で、今シーズン10勝目をあげ、同じシーズンでの「2桁勝利、2桁ホームラン」を達成しました。 これは、大リーグでは「野球の神様」と言われるベーブ・ルースが1918年に達成して以来、104年ぶり2人目の快挙です。 「 Be just and fear not」=正を守りて恐るるなかれ! これは、シェークスピアの名言に示されている。 正義に基礎を置かない勇気は「匹夫の勇」であり、誠の正義にあらず。 誠の勇気とはどこまでも、正義を基にしたものでなければならない。

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    東京
  • 年齢
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  • 性格
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  • -

興味あること

恋愛、趣味友達、食べ・飲み友達、ドライブ、スポーツ・フィットネス、カラオケ

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中国共産党(中共)について42

アメリカのブリンケン国務長官は4月24日夜、上海に到着し3日間の北京訪問を開始した

今回、幾つかの注目点がある

ブリンケン国務長官は到着後、先ずネット規制を突破して、上海の外灘(ワイタン)を背景にした短い動画をX(旧Twitter)にアップした

中国製の鎮痛剤フェタミルが、アメリカ国内にもたらした深刻な麻薬危機など、アメリカ国民に関連する問題や米中間の相違を解決する日程だと述べた

もう一つの注目点は、上海の一般市民が自発的にブリンケン国務長官の宿泊する上海和平ホテルに行き出迎えたことだ

ホテル周辺は、人で溢れかえった。あるネットユーザーは「これが民意を反映している」とアップした

また、別のネットユーザーは「これほど多くの人々が自発的に、中国共産党(中共)の幹部の訪問を歓迎するために出迎えることがあるだろうか?」と皮肉った

ブリンケン国務長官は、4月25日に北京に移動したが、この日は世界中の法輪功学習者(ファールンゴンガクシュウシャ=以下法輪功)にとって重要な日となっていた。この件については、1990年代に遡り解説する必要がある

1992年、李洪志(リコウシ)大師が伝統的な気功修煉法である法輪功(ファールワゴン)を創立した。心身の健康への高い効果により、クチコミで中国全土で愛好者が増えた。当初、中共は学習者に法輪功の煉功を許可していたが、中共官製メディアは文化大革命方式で法輪功を攻撃する記事を掲載し始め、同時に煉功を禁じた

1999年4月初め、天津師範大学の雑誌が法輪功を中傷した

その後、学習者は大学で座込みの抗議を行い、45人が殴打され天津市で逮捕された

4月25日、1マン人以上の学習者が北京の中南海近くの陳情局に行き、中共に拘束された天津市で殴打逮捕された45人の釈放を平和的に陳情した

当時の朱鎔基(シュヨウキ)首相は「中共は人々の煉功には干渉しない」と回答し、天津市公安局に釈放を命じた

その日の夕方、天津市公安局は拘束されていた学習者全員を釈放し、北京の陳情者達は静かに帰宅した

この陳情は、国際社会から中国史上、最も規模が大きく、最も理性的で、平和的で、エン満な陳情だと評された

しかし、当時の党首であった江沢民は4月25日の夜、法輪功を弾圧することを決定し中共政治局常務委員に法輪功に「勝たなければならない」と告げた

25年経った今、法輪功は中国国内外で、より多くの人々に修煉され、世界から認められている

この25年間、学習者は4月25日の精神を堅持し良心、道徳、正義、人間性を訴えてきた
彼らが行って来たことは、国内外の中国人に、中共の暴政に反抗する勇気を与え同時に光と希望をもたらした


江 沢民(こう たくみん拼音=チャン・ツェーミン)1926年8月17日〜2022年11月30日は中華人民共和国の政治家。第3代中国共産党総書記、第4代党中央軍事委員会主席、第5代国家主席、第2代国家中央軍事委員会主席を務めた。
天安門事件直後の1989年6月21日、日本政府は第3次エン借款の見合わせを通告しフランスなどもこれに応じた。
7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)でも中国の民主化弾圧を非難し世界銀行の中国に対する新規融資の延期に同意する政治宣言が発表された。但し当時の日本の宇野宗佑首相はアルシュ・サミット前に対中制裁反対派および慎重派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相と会談しサミットでは「中国を孤立させるべきではない」と主張して宣言に盛り込ませたことで他の西側諸国と距離感が目立った。
1989年に六四天安門事件が起き、国民を制御するため今まで活用してきたマルクス主義、階級闘争、社会主義などのイデオロギーが通用しなくなったことを悟った江沢民は、国内政治の不満を逸らすべく、マルクス主義、階級闘争、社会主義などの代替イデオロギーとして反日教育を利用し始めた。
1991年に江沢民は「小学生、中学生から大学生まで、中国近代史、現代史および国情教育を行うべき」であり「1840年のアヘン戦争以降の百年にわたり中国人民が列強から陵辱を受けた史実を挙げて説明」し、「五四運動以降、中国共産党が誕生し、各族人民を指導して土地革命戦争、抗日戦争、解放戦争を経験し、中華人民共和国を建国し、中国人民が立ち上がったこと」を教育するよう要求した。
これを受けて国家教育委員会は「小中学校の中国近代、現代史及び国情教育強化のための全体綱要」を作成し、歴史、地理、語文、思想政治を関連科目として指定し、各科目に対してそれぞれ近現代史、国情教育強化の指示を出した。こうして実施された近現代史教育において中国共産党は「日本は、日中戦争で独立存亡の危機に中国を直面させ他方でその日中戦争の中から中国共産党が覇権を握っていく」という「『正しい歴史』に密接にかかわる必要不可欠なキャラクター」であり、日本政府は明治維新から終戦まで一貫して、資源が乏しい中で近代化を実現するため中国を侵略する計画を持ち、戦争は周到に計画されていたとする「戦争必然論」の立場を取るようになり、こうした思想が教科書にも貫かれ1990年代に入りこうした観点から近現代史教育が強化された。江沢民は「教育部門のみならず、思想宣伝部門、政治法律部門、全党、全社会も努力しなければならない」と述べており1990年代以降、教科書のみならず、テレビ、新聞、映画などの全分野において、青少年に対して愛国主義教育が展開されるようになり教科書に要求された内容を基礎とする報道、ドラマ、映画などの製作が求められ、教科書に要求された内容が報道、ドラマ、映画などのベースを提供するようになった。江沢民は、自分の父親がかつての大日本帝国の傀儡政権である汪兆銘(おうちょうめい=ワン・ジャオミン)政権の官吏だったことを隠すために「自分がいかに反日か」を示そうと愛国主義教育基地として「抗日戦争記念の地」を選び1994年に中国共産党中央委員会によって「愛国主義教育実施綱要」が制定され抗日戦争記念館への見学や、教科書に南京大虐殺、三光作戦、万人坑、731部隊などに関する記載が大幅に増加され、それまで日本軍の侵略に関する記載は小学校では10%、中学校では20%であったが、中学校教科書『中学歴史第四冊』(2001年)では総161頁のうち、41頁が該当しており、大幅に追加されている。そして、「抗日戦争勝利50周年」に当たる1995年から徹底した反日教育を推進し1995年9月3日に北京で開催された「首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」で江は演説し日中戦争の被害者数をそれまでの軍民死亡2100万(抗日勝利40周年の1985年に中国共産党が発表した数値)から死傷者数を含めた上で3500万とした。
江沢民は首相退任後の1990年5月7日に宇野が中国を訪問した際にこの事への感謝を述べた。エン借款自体は1991年8月に宇野の後任である海部俊樹首相の中国訪問によって再開されたものの、中国には天安門事件のイメージを国際社会から払拭する必要があった。
そのために江沢民は1992年4月6日に田中角栄への見舞いも兼ねて訪日した際に天皇を中国に招待し、同年10月に明仁天皇・美智子皇后は中国を訪問することになる。天皇訪中は日中関係史で歴史的な出来事だったが、1988年から10年間外交部長(外務大臣)として、1993年から2003年まで国務院副総理として15年間、江沢民時代の外交を支えた銭其琛は回顧録で天皇訪中は西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあったと明かしている。
江沢民は、歴史問題を対日外交圧力の重要カードとイチ付けており『江沢民文選』によれば1998年8月に外国に駐在する特命全権大使など外交当局者を集めた会議で「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」「日本の軍国主義者は極めて残忍で、戦時中の中国の死傷者は3500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。軍国主義思想で頭が一杯の連中はなお存在している。我々はずっと警戒しなければならない」と述べ、日本の軍国主義はなお健在との認識を示した。また台湾問題については「日本は台湾を自らの『不沈空母』と見なしている」「日本に対し、台湾問題をとことん言い続けるとともに歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなければならない」と指示を出した。江沢民の対日政策によって中国では反日感情が高まり、同時に日本でも嫌中感情が高まった。

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