即興小説・9月1日、アイスクリーム、彼女は転校した 2
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一限もそろそろ終わるという頃、猛烈な勢いで腹が痛くなってきたので、休み時間に突入すると同時にトイレに掛け込んだ。ソフトクリーム2個一気食いからの、エアコンの効きまくった教室での授業は僕の腹に致命的なダメージを与えるには申し分なかったようである。熱中症で倒れられて生徒の親からクレームが来たらたまらんという事で、エアコンの温度設定も生徒任せにしておいたのが仇になったな。下腹部の痛みと格闘しながら、そんなくだらないことを考えていたら、トイレ内の会話が聴こえてきた。
「B組の神田が転校したんだってよ」
「マジで!?なんで?」
「親の都合らしい、詳しくは知らんけど」
刺激を与えるために、ウォシュレットのボタンを押そうと思っていた指が、空中で停止する。
「奥永が神田の事、好きだったらしいよ」
「そうなん? 意外だなー。あいつの好みってギャル系なんかと思ってた」
彰彦の話題が出て、動揺してウォシュレットをおしりボタンではなく、ビデボタンを押してしまった!彰彦の苗字は奥永なのである。あ、玉が!玉に変な刺激が来て、逆に下腹部がまた痛くなってきたっ!
「おい、そろそろ二限はじまるぞ!いこうぜ!」
「そうだな」
個室内に取り残された僕は、腹の中の老廃物を出し切るまで格闘するのだった。二限開始のチャイムを聴きながら、神田の事を思い出していた。肩まで伸ばした長い艶のある黒髪。化粧っ気はなかったが、確かに整った美しい目鼻立ちの顔。クラスの前面に出るような主張する強さはなかったが、優しい人柄で、理不尽な暴力に晒された者がいたら、さり気無く庇い立てるような強さをもっていた。中学のとき、どんくさい僕がドンガメ!ドンガメ!とクラスの男どもからバカにされていたとき、「おめーら、やめろよ!」と守ってくれたのは、いつも彰彦で、思い返せば、その側には神田もいて、僕のことを哀しい顔で見つめていたのだった。今になって、あのときの神田の表情が克明[こくめい]に思い出されるのは何故なんだろう。
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二限も半分を過ぎたところで、果てしなく続くかと思われていた便意との戦いを終えた僕は、スニーキングミッションよろしく廊下にへばりつき、教室内の様子を伺う。話が脱線する事で有名な社会科教師が今日も、あの政党は信用できない、あの政治家は偽物だ、などといつもの政治持論に熱中していた。この様子なら、こっそり忍び込んで、教師に気付かれないように自分の席に戻る事もできる。僕は、ミッション成功を確信し、暗殺者のごとく忍び足で、教室の後方ドアから潜入する。自席まで、あと少しというところで、教師の動きが止まる。
「侵入者あり!私は授業を妨害する者とは、断固闘う決意を辞さぬ者である!だがぁ、しかし!私は敵であろうとも、対話を試みる高潔な精神をけっして忘れはしない!侵入者である君よ!質問に回答したまえ!正解なら、私は日本海のような広い心を持って君を許すだろう!」
「は、はあ」
あっさり見つかったと思ったら、変な流れになった。
「質問! 明治15年4月6日、岐阜の中教院での演説会中、暴漢に刺された板垣退助が放った言葉とは!?」
「板垣死すとも自由は死せず!」
「正解!君は自由だ!さあ、速やかに席に戻りたまえ、私は何も見なかったことにする。皆もよろしいな!」
謎のクイズタイムを終え、芝居がかった口調で教師が生徒たちをうながす。この、なんだかわからないノリに圧倒されたクラスメイトは僕に向かって拍手で迎えるのだった。下痢でトイレから出れなくなったと思ったら、次はこの仕打ちか。なんなんだ今日は。厄日かな。
「おまえ、頭よかったんだなあ」
少しは元気になったのだろうか、自席に着いたら後方の彰彦が気の抜けた声を掛けてきた。
「んなわきゃあないよ」
板垣退助の有名な言葉なんて、あれしかないじゃん。
昼休み。
「なあ、今日は屋上で食べねぇ? ま、ちょっと話したい事があってな」
と、提案してきた彰彦。了承した僕に向かって、
「今度はおれがおごるよ、ソフトクリームでいい? はは、冗談だよ、焼きそばパンでいいか? じゃ、売り切れる前に購買までダッシュだ!」
と言い終わる前に走り出していた。
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屋上。
僕は、タピオカパンを口にしながら、彰彦の様子をうかがっていた。わりいわりい、焼きそばパンは売り切れだってよ!と笑顔でタピオカパンを*てくる彰彦はすっかり通常営業に戻ったようだったが、それでもトイレの中で聞いた噂話の件がある。僕が、彰彦のようなさっぱりした性格だったら「神田のこと、好きだったんだって?」と軽いノリで聞けたのだろうか。彰彦は、焼きそばパンを美味そうに頬張りながら、どこか遠い目をしながら空を眺めていた。聞けない。これは僕からは聞けない。
話し掛けることもできないので、僕も彰彦がしているように空を眺めてみる。
雲ひとつもない、真っ青な空がどこまでもどこまでも広がっていた。今まで、意識して空なんか見たことなかったけど、なかなか、これは、うん。なんて言ったらいいのか、わからないけど。すごい。きれいだ。語彙力。ーーと、自身の文学センスの無さを悲観していたら彰彦が口をひらいた。
「これ、言おうか言うまいか、悩んでたんだけどな。やっぱ言うわ! 神田の事なんだけどな、神田、、、」
遂にこのときが来たか! 僕は、彰彦の勇気を称え、傷心の彼を精一杯励ましてやろうと誓うのだった。
「神田さ、あいつ、おまえの事が好きだったんだぜ?」
僕の脳内には、ネットでよく見かける猫が「????」の表情を浮かべている、あの画像が浮かんでいた。次に口内のタピオカパンを吐き出しながら叫んでいた。
「ぶ、ぶべぁっ!! なんですとーー!!」
「あーあ、その様子じゃあ、おまえ全く気付いてなかったんだな」
「え、僕は彰彦が、神田のことを、、、」
僕はすっかり混乱していた。
「はあ? ま、まあ、確かに昔は、あいつの事好きだったし、別に今でも、、、」
そう言いながら、ばつの悪そうな顔をする彰彦。
「なあ、おまえ、おれと仲良くなったときのこと覚えてるか?」
彰彦と仲良くなったときのこと? そういえば、気付いたらいつの間にか仲良くなってたけど、いつぐらいからだったっけ? 僕は思い出していた、、、
あれは中学一年の頃だったろうか。
どんくさくて、運動も勉強も苦手だった僕は、昔からいじめられることには慣れっこで、ストレスを溜め込みつつも、反撃することもせず、受け流していた。争ったり、憎しみ合うこと自体が、ばかばかしいと子供ながらに気付いていたんだ。
でも、自分に向けられる悪意を他人に向けられたとき、僕はそれを許せなかったんだ。
あの頃、神田和佳菜は、僕の隣の席に座っていた。ある日、彼女がなにかの授業の教科書を忘れてきた事があった。机の中を何度もガサガサと探し、次に鞄の中をゴソゴソと探す神田の姿を見て、僕はああ、これは教科書を忘れてきたんだなあと察した。自分と同じく、口数も少なくおとなしめな神田に勝手ながらシンパシーを感じていた僕は、数センチ間離れていた机と机の間を、ピッチリと密着させ、自分の教科書を互いの机の真ん中に置いて開いた。ほら、こうすれば大丈夫だよ! 僕は神田に向かって微笑んだ。彼女は、コクリと黙って頷いた。それから授業中は教科書の方を凝視して、僕のほうを見る事はなかった。
授業後、クラスのガキ大将的なやつが神田に絡み始めた。「おまえ、さっき、教科書忘れてきたんだろ? 仲良く席くっつけちゃって、アツいねー!この!この!」
神田は、顔を真っ赤にしながらうつむいていた。なんて言えばいいのかわからない、そんな様子で身体を震わせていた。僕は腹が立った。おまえなんか教科書忘れてきても、平然と授業受けてるじゃないかよ。むしろ、教科書持ってきてても、授業なんか真面目に受けてないじゃないか!
「違うよ! 教科書を忘れてきたのは僕だよ! 真面目な神田さんが教科書を忘れてくるはずなんて、ないじゃないか!」
ガキ大将に向かって、「なんだとー!」と歯向かうほどの漢気はない僕だったが、このくらいの機転を効かすことはできる。隣の神田をみると、(ええ、、、?)とでも言いたげな青ざめた表情をしていた。今はきみのことを庇ってあげてるんだから、そこはうまく察してほしい。「だよね?」と、同意を促すように僕は、言葉を重ねた。
「う、……うん」申し訳なさそうな顔で、神田は頷いた。
「んだよ、、紛らわしいことしやがって!」
「なんか揉めてるみたいだけど、なんかあったん?」
いつのまにか、僕と神田とガキ大将のトラブルに、クラスの人気者の奥永が乱入してきていた。
「お、奥永、、な、なんでもねえよ!」
奥永とやり合ったらクラスの女子大半を敵に回すことを知っているガキ大将は、あっさりと去っていった。