Happy Birthday メールも来ないけれど
彼女からパッタリと連絡が途絶えてからもう1年になるだろうか。
ほんのささいな冗談が彼女を傷つけてしまい、リカバリーのチャンスももらえないまま、完全にSNSは封鎖されてしまった。
20年以上の交友関係を続けてきた。
東京に住んでいる彼女とは数年に一度しか会えないが、心のつながりは深いものがあると実感してきた。
純粋に友人だ。それ以上の関係はない。
しかし私自身は、いずれは‥‥と思ってきた。双方の状況に何らかの変化があったときには、いずれ、と。
しかしその、小さくて深い事件以降、彼女は貝が蓋を閉じるように、自らを閉じてしまった。
毎年誕生日にはプレゼントを贈りあう慣習も、それ以来一切なくなった。
修復不可能と思わざるを得なくなって、私の方も無理に連絡を取るようなことはしたくないので、通信手段を閉じた。
* * *
と、あれほど「いずれは」と思い、どんな理由をつけて東京へ行こうかと常に考えていたその思考回路がぷつりと停止したようだ。
ふと、彼女のことをあれこれ考えなくてよい自分がすごく楽であり、心地よい思いでいられるということに気がついたのだ。
彼女へのあこがれと尊敬と敬慕の気持ちが、実はある意味自分自身へのプレッシャーとして働いていたのか、と突然気づくことになってしまった。
もちろん、彼女のことを完全に忘れることはないだろう。
しかし時が経ち、何らかの縁がまた二人を引き寄せることがあったなら、そのときは今までよりももっと軽い、かつ豊かな気持ちで接することができるのではないか。
そんな気がしてきた。
「諦念」もまた新たな出発点なのかもしれない。