即興小説 晴野雨音はこもりがち 第3話 神凪律子は企てる(前)
神凪律子[かみなぎ りつこ]は中学教師である。昨年度まで夜職だったのだが、大学で教員免許を取得していた事もあり、今年度から教師となった。律子の家は裕福ではなかったが、赤子の頃から出会った誰もが褒め称えるような美貌を持ち、さらに優れた頭脳と運動神経を備えた彼女は短大に合格後、なぜか銀座の高級クラブで働き始めた。学生時代、その人並外れた容姿は学区外にまで噂になり、その噂を聞き付けたいくつかの芸能事務所が彼女をスカウトしに来たが、律子はそれらを全て断った。「わたしは人前に出てなにかを披露するほどの才能はない」というのが、スカウトマンたちに告げた表向きの理由であったが、実際のところはというと、芸能界のような世界は彼女が最も嫌悪するところだったからだ。それ以外に楽して稼げるところはないかしら? 律子の問いに、朝ドラ、大河ドラマ、月9、それら全てで主演を張ったという女優を輩出したという老いたスカウトマンは答えた。「銀座の高級クラブを紹介しよう。あそこは政財界のトップの人間しか来れないようなところだ。君のような知性があれば全く問題なくやっていけるだろう」果たして彼の予言は当たり、律子は某高級クラブに勤め始めて1か月にして、その店の指名No. 1となっていた。「末野摘花をものにするのは誰なのか!?」と永田町の政治家たちの間でたびたび議論になるも、しかし律子は誰のものにもならなかった。ちなみに末野摘花[すえの つむか]とは律子の源氏名で、源氏名の元となる源氏物語の登場人物からとったものである。律子は、稼いだ金の半分を実家に仕送りしていたが、その額が田園調布に家が建つほどになった頃には、彼女はすっかり夜職の仕事に飽きていた。
『当店には選ばれた者しか入店できません』
それが、その店サンクチュアリのホームページにあげられたキャッチコピーだったが、実際に接客してきた律子にしたら、「これのどこが選ばれた人間?」という客ばかりだった。親の資産を受け継いで、たいした苦労もせず話も薄っぺらい政治家、いかに他人を蹴落としてきたかを武勇伝のように熱弁するIT企業の社長、医療ミスをどうやって隠蔽してきたかを悪びれもせず語る病院長、、、演技のうまさには自負がある律子でも、このような連中に笑顔を見せるのに、さすがに疲れ始めていた頃、とある学校の理事長だという男が部下を連れてやってきた。大手企業から天下って理事長になったという男は、「おう、川谷ぃ! 今日はおまえが入ろうと思っても一生入れないような店に連れてきてやったぞ!」と、店に入るなり部下の男に対してマウンティングを始めたので、さすがの律子も面食らった。
「久しぶりに来たら、見ねえ顔がいるじゃねえか? 誰だい、あれは?」
不愉快な視線を自分に注ぐ理事長に、律子は笑顔を見せる。内心は、理事長の傍らで肩をすぼめて固まっている男が気になっていた。なぜか見覚えがある気がしていた。
「現在当店No. 1の末野摘花です。御指名されますか?」
店長の問いに、「もちろん! な、おめえも先は長くねえんだから、今日くらいはぺっぴんさんと楽しんでけよ!」と、理事長は傍らの男の肩をバシンバシンと叩きながら答えた。
理事長の連れてきた男は、都立八咫中学という中学校の校長だった。理事長がドンペリを下品にガブ呑みしてる横で、校長は焼酎をうつむきながらちびちびと飲んでいた。
「こいつさあ、今ではすっかりくたびれたハゲ親父だけど、昔は熱血教師としてそこそこブイブイ言わせてたんだよ! な!?」
「はあ、まあ、そう言われたこともありますな」
校長の声を聞いたのは、その時がはじめてだったが、落ち着いていて誠実さを感じられる、その声質は悪くないと、律子は感じていた。
「昔、『昼周り先生』ってドラマがあっただろ? こいつはそれのモデルになった男なんだよ。昼休みになると、学校を抜け出して不登校時の家に行って、学校に来るように説得したり、ゲームセンターでサボってる不良連中と格闘ゲームで対決して、おれが勝ったら真面目に学校に行け!とかやってたやつ。あれは実際にあった話なんだぜ」
そのドラマは律子も小学生の頃に見たことがあった。校長の顔を見覚えがあるとは思ったが、なるほど当時のワイドショーかなにかでドラマの番宣で見たことがあったからだろう。
「あの頃不登校だった子とは、今でも交流が続いていてね。こないだ二人目の子供が産まれたと連絡が来たんだ。ほら、これがその子と産まれた子の写真だよ」
そう言って飾り気の無いスマホに映し出された画像を見せてきた校長こと川谷傑[すぐる]の、自分の孫を見るような眼鏡の奥の優しい瞳を見て、律子はある決心をした。
「ううっ、もう呑めねえっ! わりいがおれは帰るぞ!」
ひたすら川谷をだしにしながら、しょうもない話を続けていた理事長だったが歳も歳なのか、来店1時間程ですっかり酔い潰れてしまった。
「それでは僭越ながら失礼致します。今日は楽しい時間をありがとうございました」
立ち上がり、姿勢正しく礼をする川谷の姿を見て、店長はその場違いな行動に苦笑していたが、すかさず同調し、川谷のスーツの埃を払い落としてやる律子を見て、そんな彼女の姿を見るのは初めてだったので意外に思ったのだった。
川谷が、妻も子もいない一人暮らしの自宅に戻り、スーツの上着を脱ぐと、ひらりひらりとメモのような紙切れが足元に落ちてきた。どうやら先程まで滞在していた高級クラブで、帰り際にホステスが内ポケットに忍ばせたらしかった。桜の花びらが舞い落ちる姿のようだったなと、自身の現状を重ねながら、川谷が紙を拾うと、それは折り紙状に畳まれており、ハートの形をしていた。なんの冗談かと、川谷が折り畳まれた紙をひらくと、中にはこのような事が書かれてあった。
======
最初は体調が芳しくないと聞いたあなたのために鶴を折ろうとしましたが、あなたの先輩の目を盗んで鶴を折るのは難しかったため、簡単に折れるその形に致しました。こんなわたしを怠惰だと思うなら、どうかお叱りください。
幼い頃、あなたをモデルにしたドラマで、生徒たちに紙飛行機の折り方を教えるシーンを見たことを覚えています。
『さあ、この紙飛行機を飛ばそう! 君たちは誰にも邪魔をされず、この紙飛行機のように自由に飛んでいくんだ! そう、自由に!』
そんな台詞は今でも覚えているのに、紙飛行機の折り方はすっかり忘れてしまいました。
先生にお願いがあります。出来の悪い生徒のわたしに、再び紙飛行機の折り方を教えてほしいのです。個人授業の日程が決まりましたら、次の番号まで連絡ください。
先生の素敵な声をまた聴けることを期待しています。
末野摘花こと神凪律子
090-××××-××××
第4話 神凪律子は企てる(後)に続く