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Jメール日記

投稿内容

  • アルピーヌ 60歳以上 - 東京 close

自己紹介

《コメント》 ドライブ は、年間走行距離が三マンキロ越え! 業務と通勤で、歩く歩数は二マン歩越えの元気有り余るシニアです コロナ禍での「孤独」、多くの方が感じたことと存じます。 リモートワーク、オンライン学習、友人や仕事仲間との交流も少なくなり、気がつけば「一人ぼっち」。 そんな孤独感の中で、過度に思いつめるというか考え込んでしまう日々が増えておりませんか? 私、翁からのメッセージ 本当に困った時、相談する人は… 普段、貴女に耳の痛いことを 言う身近な方が力になってくれる 私が67年生きて来た経験から 言えることです! 【コロナ禍中の大谷現象】 大谷翔平が持っている野球選手に必要な性格とは? プロ野球選手は常に大観衆の前でプレーをすることが必要になります。チームの勝敗にファンは毎日のように一喜一憂します。 ファインプレーやナイスピッチングには割れんばかりの大歓声を送ります。エラーをした時や打たれてしまったときは悲鳴のような声が球場に響き渡ります。 自分の一挙一動をファンは一心に見守っています。そして、チームの勝敗だけでなくファンからの期待を背負ってプレーする選手にかかるプレッシャーは相当のものです。 大谷翔平はどんな場面でもプレッシャーに負けることなく、チームやファンの期待以上のパフォーマンスを発揮し続けています。強靭なメンタルも大谷翔平の魅力の一つですね。 大リーグ、エンジェルスの大谷翔平選手が、9日のアスレティックス戦で、今シーズン10勝目をあげ、同じシーズンでの「2桁勝利、2桁ホームラン」を達成しました。 これは、大リーグでは「野球の神様」と言われるベーブ・ルースが1918年に達成して以来、104年ぶり2人目の快挙です。 正義に基礎を置かない勇気は「匹夫の勇」であり、誠の正義にあらず。 誠の勇気とはどこまでも、正義を基にしたものでなければならない。 「人間五十年(じんかんごじゅうねん)、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか。」 「至誠惻怛(しせいそくだつ)」という言葉が好きです。至誠は「まごころ」、惻怛は「思い遣る心」を意味します。

  • 居住地
    東京
  • 年齢
    60歳以上
  • 職業
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  • 血液型
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  • 身長
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  • 性格
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  • -

興味あること

恋愛、趣味友達、食べ・飲み友達、ドライブ、スポーツ・フィットネス、カラオケ

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台湾を中国共産党(中共)から守れ

2021年、12の国と地域に聞いた「親日度調査」、好感度が最も高い地域調査では、12の国と地域に聞いた「親日度調査」、好感度が最も高い地域は「台湾」 低かったのは韓国

調査対象は、香港、台湾、中国、韓国、タイ、インド、インドネシア、米国、英国、オーストラリア、ベトナム、マレーシアの12ヶ国

歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い

もう少し理解を深めることで、日本にとって最も身近な国のひとつである台湾の魅力が、もっとわかってくるのではないかと思う

江戸時代までは、日本は台湾を高砂国と呼んでいた

その関係は古くからあり、織田信長の革の陣羽織は高砂国から送られた革だったとか、豊臣秀吉が高砂国に手紙を送ったという記録もありる。また、三代将軍徳川家光のときには、島民が江戸まで来て拝謁していた

日本の出島にやって来るオランダ人たちも台湾に立ち寄っていた

その頃の台湾の住民は、オーストロネシア語族と呼ばれる言語を話す人達

西は、アフリカ大陸の南東にあるマダガスカル島、東は、南米のチリ領のイースター島、南はニュージーランド、そして北が台湾に及ぶ広大な地域に分布する語族

彼らが台湾の先住民で、17世紀はじめまでは中国系の住民はほとんどいなかった

つまり、この頃の台湾は海洋文化圏の島だったわけ。いまの台湾にも感じられる南洋的な明るさは、ここにルーツがあると思われる

17世紀以降、中国から入植した人達が増え、多数派となっていきたが、先住民と中国系の人たちは言葉も通じず融合は進まなかった
ところが、1874年(明治7年)、日本の台湾出兵により危機意識が生まれ、防備のために台北城を造ったりする

しかし、その後の日清戦争で敗れた清は、1895年(明治28年)の下関条約で台湾を日本に割譲する。台湾の人達にとっては、清に見捨てられたという思いだったであろう

ここで、台湾の人達は初めて台湾民主国を宣言し、上陸してきた日本軍に対して激しく抵抗した

これが乙未戦争(いつびせんそう)と言われるもので、半年間ほども続き、その間に住民15000人が亡くなったと言われる

しかし、10年〜20年を経過するうちには、台湾の人達の間に、日本の枠組みの中で自分達の地位を上げようという気持ちが徐々に広がる

当時、アジアで唯一近代化に成功した日本の文化や技術がもたらされたこともあったからだろう。台湾の街にも日本の大正デモクラシーの雰囲気が漂い、コーヒーショップやダンスホールがつくられたり、レコード会社ができたりしている

一方で、日本語教育が浸透し、同化政策が進められました。
当時の日本の台湾の人達に対する教育レベルは、現在の日本の教育よりも非常に高いものであった
筆記形式のものが多く自分で考えるパターンは、現在の台湾教育にも根付いており、教育の高さが伺える、
また、台湾統治時代に日本は、100年かかるインフラ整備をわずか10年で完成し、台湾での経済発展の礎を作り上げたり、アヘン患者の撲滅も実現した


ところが、その後、日本は日中戦争、太平洋戦争と突き進み、1945年(昭和20年)、ついに敗戦を迎えた

ポツダム宣言により、日本人は台湾から全員引き揚げることが決まる

半世紀に及んだ日本の台湾統治が終わり、台湾には、日本語で読み書きをする中国系と先住民の人たちが残された

台湾から日本人がいなくなった頃、中国では、国民政府軍と中国共産党(中共)との内戦が続いていた

この内戦に勝利した毛沢東が、1949年に中華人民共和国を建国すると、敗れた蒋介石は台湾に逃げ込む。
ただし、彼は中国の正統な統治者は自分たちであり、台北は臨時首都で、いずれは中国本土に戻ると主張した

台湾にいた中国系の人達は、日本の統治から解放され、同じ民族の蒋介石たちを歓迎したのかと言えば、ことはそう簡単ではなかった

まず、言葉が通じなかった。半世紀に及んだ日本の同化政策により、台湾の人達が読み書きするのは日本語だったからだ

そのため、互いを同胞と見なすことができず、新たに来た人たちを「外省人」、もともと台湾にいた人達を「本省人」と呼び合い、分断するようになった

国民党は、日本語を禁止し、戒厳令を敷いて力で押さえつけようとした。実は、この状態が1949年から38年間続く

近年、当時の様子がポツリポツリと出てきている。例えば、日本語で暮らしていた世代はなかなか中国語に馴染めず、中国語の教育を受けるようになった自分の子供達と会話ができず、世界観もまったく違うため、親子間で理解し合うことが難しくなった

支配層になった外省人も、日本人が使っていた住居や施設を接収して利用したのは国民党の一部のエリート層だけで、下層の兵隊たちは住む場所もなかった

本省人に混ざることもできない彼らは、そのため、日本人の共同墓地だったところにバラック小屋を建てて住んだ

その後、外省人の兵隊だった人達が先住民の女性と結婚するようになったり、戦後、三代目、四代目の世代にもなり、分断の意識は希薄になったように見える

しかし、それでも、台湾社会の根底にはこの分断が息づき続けていることが、選挙などには如実に表れる

1971年に中国は国連に加盟し、国際社会で積極的に外交を進めていく。すると、それまでは中国の代表のように見なされていた台湾の中華民国が失脚していく

日本も、1972年に日中国交正常化となり、台湾とは公的には断交することになる一方、国民党を率いていた蒋介石が1975年に亡くなり、息子の蒋経国が後を継ぐ。彼は父の路線を継承するが、晩年に、戒厳令を解除し、本省人である李登輝を副総統に就任させた

蒋介石は、1907年7月に日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。2年間の教育課程を修めたが、日本の陸軍士官学校には受からず、日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県中頸城郡高田町の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた過去もあった

この李登輝が、蒋経国が亡くなった1988年に総統に就くと、一気に民主化を進める

なぜ、蒋経国は本省人である李登輝に後を託したのか?

ひとつには、国民党が中国本土に打ち返すのはもう無理だと、認めざるをえなかったからかもしれない

また、国際社会で認められていく中国に対して、台湾がそれ以上に認められるためには、欧米と同じような民主制度を構築することが必要だと考えたのかもしれない

いずれにしても、李登輝は様々な改革を断行して民主化を進め、1996年には総統の直接選挙で再選された

さらに、1986年に結党した民進党(民主進歩党)は住民自決を謳い、本省人たちの支持を集めていく、2000年には本省人である陳水扁が民進党から初めて総統に就く

当初は非常に期待された陳水扁でしたが、スキャンダルにまみれ、経済も悪化させていく

野党となっていた国民党は反民進党の立場もあり台頭する中国経済との関係を強めようとする

2008年の総統選挙で選ばれた国民党の馬英九は、初めて中国に直行便を飛ばすなど、実際に中国との関係強化を図る

すると、台湾企業が中国に進出することもできた一方で、台湾に押し寄せた中国人達が、台湾の不動産を買い漁り、不動産価格の高騰を引き起こする

また、台湾の新聞社やテレビ局が中国資本に買われ、親中国の記事や放送が流されるようになった

こうした状況に対する危機感もあり学生達が立法院に突入して占拠する「ひまわり学生運動」が2014年に起きた
そして、その後の2016年の選挙で、反中国の立場をとる民進党の蔡英文が総統に就く

もともと、中国共産党(中共)に敗れ、反攻することを目指していた国民党が親中国になっていることは一見、不思議に見える
でも、そこには反中国の民進党と反対の立場をとることがあるとともに、共産党が統治する中国であっても、そこは自分たちの故郷である大切な中国だという複雑な思いがある
それは台湾生まれの三代目、四代目の世代になっても、外省人をルーツにもつ彼らのアイデンティティになっていると思う

一方で、清に見捨てられた思いと、日本の統治にも激しく抵抗した経験をもつ本省人をルーツとする人達が多い民進党は独立志向が強く中華民国ではなく、台湾共和国を名乗りたい思いがある

また、差別はあったにしても、当時はアジアで最も進んだ技術や文化に浴した日本統治時代の方が、国民党による戒厳令時代よりもましだったという意味で、彼らは親日的なのだ

日本と中国に対してとても複雑な経緯があった今の台湾の人達を、だから単純に親日と一括りにすることはできない

台湾は、東日本大地震の時に、海外勢で真っ先に救助ために来日し、多額のシエンキンも行った

写真は現在の台湾

コメント

  • アルピーヌ 60歳以上
    >臥龍転生さん
    そうです!
    政治主導の外交よりも、
    民間レベルの交流が
    結果的に相互間の
    信頼を築くと思います
    11/3 19:23
  • 臥龍転生 55〜59
    ちは。2020年、いち早く新型コロナの封じ込めに成功した台湾に再び新型コロナが流行の兆しが見えた頃、日本政府は余ってるとはいえワクチンを空輸した話はやはり感動しました。やはり持つべきものはやはり親日国ですね。 11/3 16:40
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