「哲学の道」と「尊敬できる人」について。
こんにちはー!
今日は僕にとっての「哲学の道」を紹介するよ
西田幾多郎が、よく思索をしながら歩いた道に「哲学の道」と名付けられたことを知って、僕なりの哲学の道を作ってみた
場所は、荒川沿いの遊歩道
人通りも少ないため、ぶつぶつ独り言をするのにも最適
ああでもない、こうでもないと、自分にツッコミを入れながら考え事をするんだ(変人かな?笑)
あと、潮の匂いがするのがお気に入り
高校は浦安まで通っていて、そこのグランドに浜風が吹いていたんだ
あの風が吹くと、とてもノスタルジックな気分になれる
もう2度と返ってこない青春の日々
さて、今日の考え事のテーマは「尊敬できる人」
以下、考えをまとめてみました
よかったら、読んでください
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尊敬できる人って、なんとなくすごい人とか、成功している人とかを思い浮かべがちだけど、僕の場合はちょっと違う気がする。
もっと静かで、目立たない基準だ。
たとえば、世界の構造をある程度理解している人。
心は脳の働きにすぎないかもしれないし、自由意志も怪しい。
過去からの因果で今があるなら、今の自分もどこまでいっても流れの中の一部だ。
そういう見方を、一度ちゃんと通過している人。
でも、ここで壊れない人。
いや、壊れてしまってもいい。
そこから、新しい物語を創作できること。
ここが一番大事な気がする。
理屈はいくらでも広げられる。
意味なんてない、と言うこともできるし、努力なんて幻想だ、と言うこともできる。
でも、そのまま立ち止まらない人。
最終的に、「仕方ないよね」と言って、日常に戻ってこれる人。
この「仕方ない」は、投げやりでも、諦めでもなくて、どこか納得を含んでいる。
理性の限界まで行った上で、それでも生きる側に戻ってくる感じ。
そういう人に、僕は少しだけ憧れる。
たぶん、僕が尊敬しているのは、すごく遠くにいる人じゃない。
上下というより、前後的な*関係に近い。
つまり、同じように考えて、同じように迷って、でもほんの少しだけ先で折り合いをつけている人。
そういう人を見ると、「ああ、この先にちゃんと道は続いているんだな」と思える。
それと、執着の扱い方も大きい。
執着を完全に手放している人なんて、正直あまり現実的じゃないと思う。
人間である以上、何かに引っ張られるのは当然だ。
でも、それに飲み込まれない人。
執着があることを分かっていて、それでも振り回されすぎない人。
そういうバランスの取り方をしている人は、単純に強いと思う。
結局のところ、僕が尊敬できる人というのは、
世界を冷静に見て、理屈もちゃんと分かっていて、
それでもなお、普通に生活を続けている人だ。
特別なことをしているわけじゃない。
中庸であり続ける姿勢。
そして、その中庸が、実は一番難しい。
もしかしたら僕は、「一歩先の自分」を見ているだけなのかもしれない。
でも、それでいいと思う。
遠すぎる理想よりも、少し先の現実の方が、ちゃんと歩ける気がするから。