自由コメント: お手柔らかにお願いします。 趣味: ドライブですかね。 誰似: わかりません。 性格: 明るい昼行灯 特技: 日曜大工 髪型: 短いです。 マイブーム: 歯磨き(薬用クリニカ愛用) ヘルシア緑茶 (お腹が気になり始めました) 好みのタイプ: わがままは言いません。 休日は: のんびり&たまに残業 恋人は: いません。 夢: 定年後、埋蔵金を堀当てたいですね(笑)
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(* ̄ー ̄)餓狼再び 〜田原坂血風録〜(政府軍主眼)これは、地元でもあまり知られていないお話です。1877年(明治10年)3月西南戦争・田原坂の戦いに於いて[薩摩示現流の抜刀隊]により甚大な被害を出した政府軍・・・この抜刀隊に対抗するために派遣された政府軍の部隊が[警視庁抜刀隊]と呼ばれた精鋭部隊でした。実は、この警視庁抜刀隊の中に※[とんでもない人物]が居たのです※[とんでもない人物]その人物の名は[藤田五郎]。新設された警視庁抜刀隊の一員で、西南戦争に従軍し、田原坂の戦いにも参加。襲い来る薩軍抜刀隊を、涼しい顔で次々となぎ倒した[修羅の人物]でした。1877年(明治10年)3月[田原坂の戦い]ちえぇすとおぉおおぉぉ〜っきいぃぃ〜んざしゅっどすっどささっo(__*)o(__*)o(__*)ぴっ・・・ぱちん。[警視庁抜刀隊・藤田五郎さん]―(* ̄ー ̄)・・・何人斬っても顔色一つ変えない非情なる鬼・・・その冴え渡る剣技、剣閃を前にして逃れる術はない。[政府軍]( ´∀`)ノハッハッハいやぁ〜さすが藤田殿実に見事な剣捌きですなぁ〜ざざっε=ε=( ;゚皿゚)ノちえぇすとおぉおおぉ〜っΣ(O_O;)ノノし、しまった(* ̄ー ̄)+ギラッどすっ( ;゚皿゚)ぐおっむ、無念・・・おんしらぁ〜、覚えておれよ〜・・・ばたっ・・・Σ(O_O;)む・・・こ、これは※[撃剣]?お主、一体どこでこれを?・・・((((* ̄ー ̄)ここは戦場・・・いつ貴殿の首が飛ぶやも知れん。ご油断召されるな。((( ;゚Д゚)))わ、分かり申した・・・冷たく、鋭い眼光だけをその場に残し、赤く滴り落ちる血刀を手に静かに去っていく・・・全身に返り血を浴びて紅に染まるその姿に、敵どころか味方でさえも震え上がり声すら出ない。((( ;゚Д゚)))ガクブル(心の声)ふ、藤田殿・・・貴殿は一体何者だ?※撃剣剣術(げきけん/げっけん)[撃]とは[投げて当てる]の意味。つまり、投剣術のコトです。分かりやすく言えば、忍者が使う[手裏剣]や[くない]がその類いです。後に短剣術や銃剣術に応用され、軍隊訓練に採用。一部応用術が現在の自衛隊の訓練に受け継がれています。(* ̄ー ̄)警視庁抜刀隊[藤田五郎さん]・・・その冷たい眼光の奥に凄まじい殺気をはらんだ修羅の剣豪でした。しかも、ほとんど無口。唯一、藤田さんの素性を知っている人物は一人だけ。それが、鬼佐川こと※[元・会津藩家老・佐川官兵衛]のみ。※[元・会津藩家老・佐川官兵衛]戊辰戦争・会津戦役で活躍した人物です。会津藩降伏後、東京で謹慎生活を送っていましたが、後に許され警視庁警視局(警察官)の職に就いていました。官兵衛さんは、とにかく薩摩と長州を怨んでいて、西南戦争では喜び勇んで政府軍に従軍し[戊辰の怨み、会津人の怨み]とばかりに各地の戦場で暴れ回った薩軍キラーとしても有名です。しかし・・・1877年(明治10年)3月18日阿蘇谷の戦闘に於いて、乱戦状態の中、敵の首を斬り飛ばした直後・・・額を撃ち抜かれ戦死。享年47。その最期は、立ったまま前方の敵陣を睨み付け、まるで今にも突撃するような・・・凄まじい形相の最期だったと言われています。(* ̄ー ̄)さて[藤田五郎さん]のほうなんですが・・・なんと、血風吹き荒ぶ田原坂の剣林弾雨の中を、堂々と歩いて登っていました。しかもその後には、首が飛ばされ、または胴体が切り裂かれた無惨な薩軍兵士の屍が累々と・・・それはまるで、狼に食い殺されたかの如く、無造作に転がり落ちていたと言われています。[政府軍後続隊](゜ロ゜;ふ、藤田殿?・・・くるっ(* ̄▽ ̄)))にやぁびくっ((( ;゚Д゚)))き、貴殿は本物の鬼か?いや、血に餓えた狼か?(* ̄ー ̄)・・・戦場では、同じ敵と再び刃を交えるコトは極めて皆無。今のわたしは・・・ただ敵を求め、戦場をさ迷う[過去の亡霊]そのものだよ。((( ;゚Д゚)))藤田殿?・・・いや、その言葉・・・やはり[新撰組]か。味方をも震え上がらせる[血に餓えた狼]・・・餓狼[藤田五郎]。実は、[元・新撰組三番隊組長・斎藤一]その人でした。((( ;゚Д゚)))確かに、この光景・・・どこか見覚えがあると思えば[あの頃の洛中]だったのか。ヽ(;゚Д;゚;)おれも聞いたコトがある。警視庁には[新撰組の生き残り]が居ると・・・ガクブル(((;゚Д゚)))ヽ(;゚Д;゚;)ギャァァァそ、それがあの男だったのか(* ̄▽ ̄)ノはい。このように[田原坂の戦い]には伝説の集団[新撰組の生き残り・斎藤一]が[藤田五郎]の名前で、幕末の京都以上の地獄絵図を具現化し、官薩両軍を震え上がらせていました。その後の彼の経緯については・・・西南戦争終盤で傷を負ったのち、戦線を離脱。後に警視庁へ復職し、後輩の育成に努めたのち退職。退職後も道場にて、撃剣剣術の指南役をこなしています。1915年(大正4年)9月28日斎藤一・・・永眠。享年71。また、同時期に亡くなった新撰組の生き残りで、北海道の小樽に逃れていた[新撰組二番隊組長・永倉新八]がいます。さいごに(* ̄ー ̄)運命の悪戯か、あるいは時代の潮流か・・・幕末動乱期の京都に於いて数多の維新志士を斬り倒し、戊辰戦争を戦い・・・そして、敵対したハズの明治政府に取り込まれ、さらには・・・かつて自分たちを瓦解させた薩摩を討つべく、再び餓狼として蘇った[新撰組の生きた伝説]・・・しかも、最後まで[権力に飼い慣らされる]ワケでもなく、あくまでも[孤高の狼]を貫き通した斎藤一の生き様は、おおよそ今の日本人にはない[士魂の象徴]だと思います。<(* ̄ー ̄)ノ歴史とは教壇の卓上論にあらず己が足で調べ、感じ、思い・・・そして、その心を汲むものである。(byみっちー)(いいコト言いましたっ)(* ̄▽ ̄)ゞって・・・元ヤンのおれが、偉そうに言う立場ではありませんがね(笑)